父親が死んだ時の光景は今でも鮮明に憶えている…
入院中だったが危篤状態との知らせを受けて病院へ向かった。
前日からすでに意識はなく、その肉体は必死に息をして命をつないでいた。
そして…
やがて息をひきとり、死を迎えた。
己の人生を全うしたかのような安らかな表情であった…
時間は未来から過去へと流れている。
僕にも「死」は必ず訪れる…
その時、僕は何を思うのであろうか?
「命」とは「この一瞬」である
父が亡くなる半年前。
最後のマジメな会話をしたのを思い出した。
「人間いつかは死ぬ」
「だからこそ、この一瞬を生きるのが大切!」
数日前に友人を亡くした父親の寂しげな表情に向かって、僕は笑顔で力強く言った。
自分自身に言い聞かせるかのように…
不思議なことに、その時の会話は三人称視点で記憶に残っている。
もう一人の自分がその会話を見ているような感じであろうか?
僕は父の命がそう長くはないことを感じ取っていたのかもしれない…
父親は持病を持っており高齢、すでに体は弱り昔の面影はほとんどなく、ほぼ寝たきり状態で介護施設のお世話になっている状態であった。
子供時代には教育熱心で厳しい父親であり、ことあるごとに説教されていた僕であったが…
いまや、弱りはてた父親に僕が教えているような不思議な感覚で、
「この一瞬を生きるのが命そのもの」と言い放った。
過去は関係ない、存在するのは「今」である。
そして時間は未来から流れてくるのだ…
僕を𠮟りつけてくれていた強く厳しかったあの頃の父が懐かしくも寂しく感じた。
僕には、宗教、人生の意味、人間死んだらどうなるか、なんて知らない…
知りたいとも思わない。
ただ言えることは「この瞬間を生きる」
すなわち「悔いのない人生を全うする」
おそらく父親はそれなりに十分満足して最期を迎えたのではなかろうか?
父親の晩年、僕は笑顔で自然体で父親に接していたからだ。
病院での危篤状態、すでに意識のない父親に
「僕は元気やで!」と笑顔で言った。
それが僕に出来る最後の親孝行の「言葉」ではなかろうか?
自分の子供が心身ともに元気でいてくれているのは親にとっては最高の幸せと僕は思うのだが、どうであろうか?
「感謝」とはなんぞや?
僕の本名には「孝」という文字が含まれている。
「孝」は“親を大切にする”という意味。
親とは何も両親に限ったことではない。
もっといえば、自分自身を生み育んでくれたこの自然すべてに感謝するということ。
「自然」には己自身も含まれている、
すなわち自分自身に正直に生きることが僕の根底にあるのだ!
いうまでもなく自己責任で。
僕の名前どおりに僕の人生を生きている…
今この瞬間を精一杯生きることが大切!
必要最小限のお金は必要かもしれないが、
老後の心配や死後のことを考え悩むのは生きることにおいては無意味であろう…
死ねばどうなる?
生まれる前に戻るだけ…
それで良いではないか?
だからこそ、この「生」に感謝して今を生きるのだ!
僕には宗教といった概念は必要ない。
なぜならこの宇宙に「絶対」は存在しないからだ。
「幸せ」とはなんぞや?
僕の本名には「幸」という文字も含まれている
名は体を表す
子供時代の僕は自分の名前は親が勝手につけた自己満足だと思っていた。
しかし、時が経てば経つほど
親が与えてくれた本名は、僕の「神那」と意味は同じであると実感したのである。
それは姓についても合致していたのだが…
幸せとはなんぞや?
親はその答えを教えてくれはしなかった。
今の僕はその答えを知っている…
それは「今この一瞬」を全身全霊で生きることなのだ!
多くの人々は、老後の不安や死んだ後のことについて悩むのであろうが…
さて、
生きるとは何ぞや?
そのひとつは「煩悩」そのものであろう
生と死は紙一重であり、表裏一体…
「ありたいように在る」
「今を生きる」
これ以上に生きる意味があろうか?
それを教えてくれたのは祖父の死である。
今でも「生きる意味」を教えてくれたことに感謝している…
僕は神那である。
「神」は、心・たましい。すべての命は今ここに在る。
「那」は、豊かで美しい人生になるように。すべての命はかけがえのない大切なもの。
これをやりなさい
ガマンしてフツーに生きなさい
などといった「まやかし(洗脳)」の圧力から僕は「自分自身」に正直に生きることを選んだのである。
自由とは何ぞや?
それは、
「自然体で生きること」
生きることは、すなわち死ぬことであろう!
死への恐怖は生きるエナジーを生み出し、
「完全燃焼」をもって人生を終える…
それが本当の意味での「幸せ」ではなかろうか?
しかし、自己責任なのだ、自分の人生は。
自己責任の反対は
「他人のせい」と「言いわけ」
であろうか?
「決断」とは「自分自身に正直に生きる」こと。
決断できない人間には本当の意味での「幸せ」は訪れはしない。
なぜなら「自分自身にどこかで嘘をつき妥協しているから」だ!
あえて言おう
アナタは親に造られたロボットですか?
ただのロボットなら「感情」「意識」なんてそもそも備わっていないはず、
もっといえばこの「自然界」に「アナタの心」が存在するという事実は、
言い換えれば「自分自身であれ!」ということではなかろうか?
喜怒哀楽といった感情を「生きるエナジー」に変えて完全燃焼するような人生を送れば良いではないか?
それは生きている間にしかできないことであるからだ!
「今」を生きる!
「親」も「学校」も「先生」も関係ない。
ましてや巷であふれかえる「情報」に翻弄されるような生活は「あなた自身」いわゆる「己」を殺すことを意味する。
教育という洗脳であろうか?
良い学校、安定した収入、家庭をもって安定した生活、老後の備え…
はたしてその人生を送り、あなたは、
「死ぬ前に後悔しませんか?」
お断りしておくが、人生の価値観は人それぞれであり正解不正解も人それぞれ。
人の意見に同調し、人と同じことをして、そこに幸せを感じるならそれはそれででいい。
「カネ欲しい」「老後の備えは大切だ」
挙句の果てには「死後の心配」までするのか?
しかし!
自分自身の信念をもって人生を送り、完全燃焼して幸せを感じて一生を終えることが生まれてきた意味ではなかろうか?
なぜなら、アナタはアナタそのものであり喜怒哀楽はあなた自身が感じているでしょう?
親や先生が感情を肩代わりしてくれるわけではないのだ。
「すべての感情を受け入れて昇華せよ」
存在理由があるからこそ今ここにあなたは存在するのです。
人それぞれ生きることの価値観は違うのは当たり前であるが…
ひとつだけ同じものがある。
それは「死」である…
人はみな平等に「死」と向かい合って、今ここに「生」があるのだ。
生きること、すなわち死ぬこと!
今の僕には、死を意識しては「幸せ」を「死合わせ」と思えるのである…